
翳したカラフル
まあいいか、と彼女は呟いた。
何がいいのか、と僕が尋ねると、
うるさい、とそっぽを向いてしまった。
僕の彼女は、蛍光ペンを引くのが好きだった。本のページ一面、隈なくマークする。カラフルに一文一文色分けされた見開きを、夜にベランダに敷いて、眺めるのが彼女の趣味。
何が楽しいのか、よく分からないが、そのご満悦の笑みを見ると、何やら彼女にとっては一等楽しいことなのだろう、という想像はついた。
月夜の晩がいい、と彼女は片手に本をひらひらと持って、にかりと笑っていた。月夜の晩が、月光でマーカーが光るから、と言う。隣で、本を覗き込んだが、蛍光灯の下と違い、僕にはハッキリ光って見えなかった。光っていると言われれば光っているかもしれないが、薄闇に溶け込んで文字はよく見えない。何色の線が引かれているのかもイマイチ判然としない。
僕の曇った表情を見て、彼女は溜め息を吐いた。まだまだね、と。
まだ、あなたには見えないのね、と。
数年後、彼女はこの部屋を去った。黒く艶やかな髪を翻して去った。別れ話だった。僕が己の経済状況やら何やらふがいないことを吐露していた時に、彼女はじっと僕の顔を見つめて、そして、去っていった。暫く僕はぼんやりと彼女の後ろ姿を目で追って、ドアを眺めていた。
帰ってくるだろう、と思っていた彼女は、もう戻ってこなかった。きっと、また別な男の元へ向かったのだろう。どこかで誰かと笑い合って、夜を過ごしているのだろう。屈託のない彼女の笑った横顔を思い描く。快活なその笑みは、いつでも真っ白な歯がきらりと覗いていて、黒い髪と対照的で綺麗だった。
まあ、もういないのだが。
彼女が去ったこの部屋には、彼女の本は残っていない。あの、ページ中全て色取られた書物たちは。彼女が持って行ったのだろう。
部屋の机の上で、彼女がしていたように一面、一文ずつ一行一行マーカーで塗り潰す。やってみれば、案外楽しい作業ではあった。地道に、コツコツと塗り終わる頃には、空が白んでいた。
次の晩、懸命に塗った本をベランダで月明りに照らしてみた。やはり、何も光らなかったし、本を塗っていた時の感動はとうに冷めていた。
僕には一体、何が見えてなかったんだろう。彼女には、何が見えていたのだろう。ごろりと、床に寝転がる。夏の夜空は、相変わらず爛々と光っていて、夏の夜風が、パラリと文庫本のページを揺らした。
すり、と紙の表面を撫でる。
いいなあ、と思った。
いいなあ。彼女の本たちは、僕が蛍光ペンのインクを何本も切らしたのと同じように、いや、それ以上に、彼女にその紙面を触れてもらったのだ。
白魚のような、あの細い手で。