
白いあしの彼女
夜空に脚が浮かんでいた。
アパートとアパートの間、建物に切り取られた細長い空間。その中空に、ぼんやりと二本の脚が浮かんでいた。
駐輪場に自転車を停めて、ふと空を見上げた時のことだった。
やけに輪郭のぼんやりした脚だった。女の足だろうか。色が白いせいか、仄かに光って見える。
下から見上げる形だが、ひらりとスカートのような黒い影が時折はためいて、その脚を隠した。
そして依然、空にぽっかりと浮かんでいた。膝の辺りまでしか見えない。下心は最初から地に堕ちていた。
暫くそうやって、ぼんやりと生白い脚が宙に浮かんでいるのを眺めていたが、あちらは数歩歩く程度で変化は見られず、俺はさっさと夕飯を食べに部屋に帰った。
怪奇現象。幽霊。夜空に浮かぶ白い脚。
気味の悪いワードのオンパレードなのに、不思議と嫌悪感はわかなかった。
昔から淡泊な気質の奴だと言われてきた。自分でも、驚くほどに驚かない。動じない。
明日の仕事のためにも、早く寝なければ。部屋の電気を消して、真っ暗になった時、一瞬頭上にあの白い脚が浮かび上がってやしないかと、少しひやりとしたところで、僅かながらもあの現象にビビってはいるのだと自覚した。目を閉じる。寝る。
明くる日、また自転車を駐輪場に停めて、空を見上げる。今夜は何も見えなかった。そりゃそうだ。ほっと一息つく。よっぽど昨日は疲れてたのかな、俺。いそいそと家に入り、さっきスーパーで値引きされていた惣菜をテーブルに広げる。普段は、なかなか手が出せないお値段の惣菜も、今日は運が良かった。半額でゲットした。里芋の煮っ転がしを頬張りながら、他のものもドンドンあけていく。今夜は大盤振る舞いだ。鼻歌交じりに夕飯を終え、布団に入り、電気を消す。
何の変哲もない毎日に、スパイスを与えるかのごとく、そいつはまた夜空にひらめいていた。数日経って、チラチラと頭上を確認していたある日、バッチリ目が合ってしまった。いや、目も何も脚だけなんだけど。ただ俺が目敏く見つけただけで。
今日は、前よりも幾分上空にいるのか、遠くに見えた。相変わらず、とことこと夜空を歩いている。
脚かあ。何で脚だけ浮いてるんだろうな。
暫くそいつを見上げる。この間より小さく見えると、ちょこまかとしたその動きが、妙に可愛く見えてしまう。不思議だ。
一通り、今夜もその白い脚が歩き回るのを、気が済む(正確には飽きる)まで堪能した後、部屋に向かう。
そんなことが何回か続いた。特に、心霊現象が起きるわけでも、実生活に支障が起きるわけでもなし、勿論俺も心身共に健康なまま日々は進んだ。強いて言うなら、少し運動をしなければ、と春に受けた健康診断の結果を見返すぐらいだ。
ある日、唐突に夜中に目が覚めた。普段、途中で起きることはないもんだから、自分でも珍しいと思った。悪夢を見たわけでもない。
もう一度寝よう、と目蓋を閉じるも、何だか頭が冴えていた。トイレにでも行くか、と布団を立つ。
じゃー、というトイレの音を後ろに、ぽりぽりと腹を掻きつつ部屋に戻る。寝る前に少し開けていた窓のカーテンが、パタパタと揺らめいている。そんなに風強かったっけ、と目を擦りつつ、窓を閉めようと手を伸ばした時。
ベランダの外の光景に目を瞠った。
脚が。白い脚が、沢山夜空を歩いているのだ。嘘だろ、と思わずベランダに出る。手すりに寄りかかって、思わず身を乗り出しそうになる。
辺り一面、様々な脚が、スイスイと歩いているのだ。何だこの光景は。キョロキョロとお向かいのアパートの方を見遣るが、誰も気付いていないようだ。
頬を軽く叩く。寝ぼけているのか、とも思ったが手すりはひんやりと冷たく、これは明らかに現実だろう、という感触しかしなかった。
所狭しと不規則に歩き回る脚たちの彼方、ふと一対の白い脚が目についた。直感で、いつも見ている彼女だ、と確信した。
脚が、脚だけがうごめいている。
その恐ろしい光景も、やはり無感動なのか淡淡としているのか俺は、珍妙な風景だな、と一言思った。
明くる朝、俺はいつも通りに目覚め、仕事に向かった。昨晩のあの狂宴も、夢半分に考え、出勤した。
例えば。あの白い脚の彼女が。やけに目についた、いつものあの脚が。
昔好きだった子の脚だったとか。元カノのだったとか。はたまた母ちゃんでも婆ちゃんでも若い頃の脚だったとか。もしくは会社の子とか。
何か見覚えがあるかと思いめぐらしたが、思い当たらなかった。そもそも俺は、そんなに女性の脚をガン見しない。俺は紳士だからな。
うんうんと、妙にポジティブに頷きつつ、やましいことのない自分の人生に、むしろ晴れやかな気分になりつつ満員電車をやり過ごした。若干、ハイになっていたかもしれない。
恙無く、今日の業務を終え帰宅する。最寄駅から自転車で帰る道中、ぎょっとした。彼女が。彼女の脚が、頭上をすれ違ったのだ。見間違いじゃない。
今日は白いヒールを履いていた。思わず、声をかけた。
「よっ。お出かけか。気を付けろよ」
くるりと、彼女がこちらを振り向いた。気がしたんじゃない。完全につま先がこちらに向き直っていた。そして、またどこかへと歩いて行った。
この時の自分が何であんな軽々しく、しかも、彼女に声をかけようと思ったか分からない。
夕飯の卓で、あいつ、地縛霊じゃなかったんだな、とキュウリの漬物をポリポリ食べながら思った。この敷地から出られんじゃん。
待てよ。もしかしたら、あのまま何処かへ向かって、ここには戻ってこないのかもしれない。
そう思ったら、何だか無性に寂しくなった。いや、何あんな不気味な脚相手にこんな執着してんだ、と自分でも訝しがりつつ。もう会えない(お目にかかれない)のかと思ったら残念に思う自分がいた。
こう言っちゃなんだが、なかなかの美しい人だったんだろう、と想像がついていた。脚から見える佇まいを思うに。
こうやってすぐに美人だと想像するのは悪いくせだなー、と天上を仰ぐ。もういい、彼女は俺の中ではべっぴんさんだった。そういうことにしておこう。
ふくらはぎのすらりとしたライン。ヒールを履いた時の上品な歩き格好。あれは美しい人に違いない。
そして重ねて言う。俺はこんなに人の脚を見るような人間じゃなかった。紳士だったはずだ。
彼女に会うまでは。
そうこうして、日は巡り。実は最近日課になりつつある上空チェックも、近頃は当たらず。彼女には会えなかった。もうここには来ないのかもしれない。自転車のハンドルを握る手に思わず力が入る。
また会えたらいいなあ。
そう思って、やはり化生に魅せられることもないトコトン現実主義で淡泊な俺は、その夜割り切った。
いつもの通り、変わらぬ日常を過ごし、帰り、たまに駐輪場の空を見上げる。そんな日々が続いた。
まあ、そういうもんだ。そういう存在は、前触れなく、唐突に舞い戻ってきて、その姿を現す。
ひょっこりとある夜、彼女の脚は夜空に浮かんでいて。あの時、最後にすれ違ったミュールをその足に纏い。ぽっかりと夜空に浮かんでいた。
「よう。お帰りか?長いお出かけだったな」
気軽に声がついて出た。自転車を手に、彼女を見上げる。久しぶり、と声をかける。
たんたん、と彼女はつま先を二回タップした。