
星を見る男
うるさい。
うるさいなあ、と思う。
おれは、ただ星を見ていたいだけなのに。
望遠鏡を担いで、今日もまた草原を走る。ひんやりと冷たい冬の夜風にさらされた草たちは、露をきらりと光らせていた。誰に見られるでもなく、ただ、冬の夜空の下、しっとりと静かにその葉を光らせているのだ。
昔から、お気に入りの望遠鏡があった。父が、小さい頃に、何の記念日だったのか分からないが、とにかく、プレゼントで俺に分け与えてくれたものだった。白く、つるりとしたその表面を撫でては、その肌触りの良さに、望遠鏡を抱えているのが、小さいころのおれのお気に入りだった。望遠鏡を抱いていると、今でもひどく落ち着く。
父は、おれが五才の時にいなくなった。正しくは、五才の時にはもうすでにその姿を消していた、というのが正しいか。おふくろもいなかった当時のおれは、古びた畳の、ちょっと埃臭いあのアパートに、一人残されたのだった。そこからは、よく覚えていない。父が、帰ってくるかな、と思って、しばらくあの一室で一人、父の帰りを待っていたように思う。ひどくおぼろげな記憶だ。たった一人の父がいなくなっても、俺はぼーっとしたやつだったのだろう。ただ待つことしか出来なかった。探すこともしなかった。ただ、父がくれた望遠鏡を握りしめて抱えているだけの子供だったのだ。
児童相談所とか何だとか、よく分からない白い服を着た大人たちが部屋に、ある日押し寄せてきて、気付いたら施設だか何だか、よく分からないところにぶち込まれていた。部屋に来た時に、一人の女が俺に話しかけてきた。栗色の肩ぐらいの髪をゆるりと内巻きに巻いた、白衣を着た女だった。
あなたは何も悪くないよ、と話しかけてきた。何が、何も悪くないよ、だ。悪いも何もない、気付いたら、いつも一緒にいたはずの大人が気付いたら消えていたのだ。ただそれだけの事実に、なぜそんな声をかけられるのか甚だ当時の俺は疑問だった。
父は悪くない。気付いたら、いなくなっていた。ただそれだけのことだ。いなくなりたいやつは、勝手にいなくなればいい。そして、飽きたら、勝手に、きっとまたぶらりと戻ってくるだろう。人間とは、きっとそういうものだ。
割れんばかりの雷鳴がする。広い空に響き渡るその劈きを遠くに、雨に打たれながら、その日も俺は草原を疾走していた。はやく、はやく。雷が、逃げてしまう。雷が逃げてしまうと、決まって、星もひっそりと、その姿をどこかに潜めてしまうのだ。
土砂降りを一身に浴びながら、泥を跳ね上げ、ひた走る。傍目から見れば、気の触れたやつにしか見えないだろうが、俺にとっては一大事なのだ。星が怯えるその姿が、見られるその日は、なかなか来ないのだ。笑うなら、笑え。波のように過ぎ去っていく人間たちには興味はないのだ、俺は。
星さえ。星さえ追えれば。星さえ追えれば、きっとどこかに行けると思っていた。
星さえ追いかけていれば、いつかきっとどこかにたどり着くと、俺は信じて疑わなかった。
雷鳴轟けど、俺の居場所は見つからず。いや、そんなはずはない。きっと、どこかに俺の安息の地はあるはずだ。そのために、それを見つけるために、俺は、ここまで望遠鏡を担いできたのだ。こんな地の果てまで、星を観測しに来たのだ。
涙は出ない。同胞が、もしかしたら空の上にいるのかもしれない、という、ぬばたまの希望が一筋、俺の中に流れるだけだ。
その日の夜は、結局、雨に打たれて、はるか遠くの稲妻を背に浴びながら、夜空の下、草原を駆け抜けた。雷に照らされた、厚い真白の雲が夜空にはびこるのを見かけるだけで、終ぞ星など見れるはずが、その日は、なかった。
どこにいるのだろう。どこに行けば本当の星が見られるのだろう。本当の星が、見たい。
今日も、冬空の下、自分の居場所を観測するように、星を眺めるために、俺は野原を駆け抜けて、夜がまた、意味もなく明けていくのだった。朝は、まだ来ない。
黒い木立の背景に、赤く、紫に輝く銀河が広がっている。やっと、やっと見つけた。見たかった風景を見つけた気がした。燦然と輝く白い星々は細かな光を地上に散りばめながら、またたいていた。ひどく透き通った空気が、夜空を駆け抜けていった。
月は、まだ出ない。